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2006年10月29日 (日)

敬語5分類というくだらなさ

先週のニュースで一番笑ったのは、敬語を5分類するという文化審の指針案である。
こんなことを習わせられる生徒が気の毒でしょうがない。
敬語が誤用される事態が多いので細かく分類したとのことだが、分類を細かくすると誤用されなくなるのか。
はっきり言ってしまえば、文法学者の飯の種を増やすのが目的ではないかと思ってしまう。

敬語の誤用が多いというが、大体日本語の中で複雑な敬語の体系を持っているのはごく一部でしかない。
それは、身分制を重んじた武家社会という世界の中での言葉であって、方言なんかを考えてみればわかるが、敬語は非常に簡単である。
それに現代の敬語とは、従来はアウトローが使っていた言葉を取り込んで出来上がったものである。
例えば、「です」という言葉は江戸時代は奴言葉だそうだし、「お父さん」「お母さん」という言葉は江戸時代は女郎言葉だそうだ。
江戸時代の武家の言葉をもとに、そのような言葉を含めて明治時代以降つぎはぎにしながら纏め上げたのが、現代の標準語である。
そんな形でできあがった言葉がいびつであり、その中で使われる敬語が形をなさずに変化するのは当たり前だ。
それを敬語の誤用と叫ぶのは、社会生活と切り離された世界で文法を考えればよい文法学者ぐらいだろう。

大体、美化語と丁寧語を分けなくたって、混同はしないだろう。
丁寧語にそのような分類が可能という考え方は、学者が研究のために行えばよいのであって、誤用と叫ぶのはいかがなものか。
そんな意味のない教育をするぐらいなら、もっと本を読ませたりディベート訓練をしたりしたほうがいいのではないか。

余談だが、純粋な日本語、正しい日本語とは何だろうか。
福田定良氏は哲学者だが、その内容はわかりやすくて本質を得ている。
純粋な日本語、正しい日本語というとき、それはそうでないことが判明していないからそう言っているだけなのだ。
これが正しくてあれは正しくないというときは、疑ってかかったほうがよい。

Book 落語としての哲学

著者:福田 定良
販売元:法政大学出版局
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コメント

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投稿: Terrell | 2007年5月11日 (金) 11時01分

コメントいただきありがとうございます。
返事が遅れて申し訳ございません。
文法は母語と異なる言語を学ぶ人間にとっては便利なものですが、それを基準にして正誤の裁断を行うことは反対です。
「ら」抜き言葉はすばらしい言葉であることを以前筆者がこのブログで書いたのですが、それは文法的に誤りであると反対する人々が多いことを念頭に置いてしまったため、文法学者と書いてしまいました。
どのような人であろうと、これこそが正しい日本語といって、標準語という限定されたものしか受け入れない人間に対し、筆者は異を唱えていきたいと思います。

投稿: ぴーひょろ | 2006年11月12日 (日) 11時38分

わたしは韓国で日本語教師をしているものです。本職に関する内容ですので,本名で投稿します。わたしは「純粋な日本語、正しい日本語というとき、それはそうでないことが判明していないからそう言っているだけなのだ。」という意見に全面的に賛成するものですし,本文の記事の趣旨にも賛成です。ただ「敬語の誤用と叫ぶのは、社会生活と切り離された世界で文法を考えればよい文法学者ぐらいだろう」という見解は実態を反映していないと おもいます。おおくの まともな文法学者は文法というものが ことばの「正しさ」を判定する道具になっては いけないということを自覚しています。三分類よりも五分類というのは,文法を「正しさ」の規範とするという発想ではなく,現実が文法とあっていないときは文法のほうを現実にあわせなければならないという あたりまえの主張から でてきたものです。それを「正しさ」を裁断する道具として ふりまわしているのは文法学者ではなくて,現場の教師やニセ文化人,にわか国語学者のような かおをした小説家たちであり,それらに くらべれば,文法学者たちは はるかに ましな人たちが おおいというのが現状でしょう。

投稿: あきづき やすお | 2006年11月10日 (金) 10時42分

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