2007年1月28日 (日)

さよなら、アカデミー賞~アカデミー賞でそれほど騒ぎ立てる必要があるのか?

最近菊地凛子さんがアカデミー賞にノミネートされたことが話題を呼んでいる。
が、そんなにアカデミー賞で騒ぎ立てるほどのことだろうか。

というと、菊地凜子さんがノミネートされたことにケチをつけるのかと言われそうだが、全く逆である。
むしろ、喜ばしいことである。
だが、問題は菊地凛子さんがノミネートされたことそのものではない。

アカデミー賞というと世界的な映画賞だと思われがちだが、その知名度に比較して実態は非常にローカルなものだ。

ノミネートされる条件として、ロサンゼルスで上映されることが条件となっている。
なぜかって言うと、アカデミー賞というのはもともとがハリウッドの娯楽映画業界の賞であるからだ。
したがって、それとは異質な分野、たとえば外国語映画部門やドキュメンタリー部門は非常に軽い扱いである。

確かに、ハリウッドの映画がほかの映画よりおもしろい時代であれば、アカデミー賞は目指すべき映画賞であったかもしれない。
しかし、最近のハリウッド映画の凋落ぶりとそれ以外の映画の台頭を見ると、もはやアカデミー賞など取るに足らないと言われても仕方がない。

最近のハリウッド映画が何でつまらないのか。
リメイク頼みやCGアニメ。
ここらが理由としてあげられるだろうか。
前者の場合、リメイクでも面白ければいいが、実際には面白くないものが多い。
特に2006年に公開された「ポセイドン・アドベンチャー」のリメイク、「ポセイドン」は、その年に日本の地上波でオンエアされた。
ハリウッド映画が公開されたその年に、日本の地上波で放送されるなんて、通常はあり得ないことだ。
後者の場合、近年のCGの技術の発展に驚かされて見たものの、どれも内容が同じような感じだ。
カーズやシャークテイル、ファインディング・ニモなど、どれも家族愛や友情などテーマが一緒。
何見ても後から思い返すと区別がつかないというひどい状況だ。

その一方で、ハリウッド映画以外の勃興がすさまじい。
日本でも2006年の邦画の観客動員数が洋画よりも上回ったようである。
世界各地の映画にも実にすばらしいものが出てきている。

ところで、菊地凛子さんがノミネートされた「バベル」の監督・アレハンドロ=ゴンザレス=イニャリトゥ氏だって、メキシコ出身の人で以前は外国語映画部門でノミネートされた人である。
この映画は「アモーレス・ペロス」というスペイン語の映画であり、筆者は非常に感動した(このとき受賞したの「グリーン・ディスティニー」だった)。
今回は英語なので、ノミネートされた部門が広がったが、結局のところハリウッド以外から参入した人なのである。

こうしてみると、アカデミー賞で今更騒ぐ必要はない。
ハリウッド映画の凋落とそれ以外の映画の台頭により、アカデミー賞にかつてほどの輝きはないのだから。

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2006年10月29日 (日)

敬語5分類というくだらなさ

先週のニュースで一番笑ったのは、敬語を5分類するという文化審の指針案である。
こんなことを習わせられる生徒が気の毒でしょうがない。
敬語が誤用される事態が多いので細かく分類したとのことだが、分類を細かくすると誤用されなくなるのか。
はっきり言ってしまえば、文法学者の飯の種を増やすのが目的ではないかと思ってしまう。

敬語の誤用が多いというが、大体日本語の中で複雑な敬語の体系を持っているのはごく一部でしかない。
それは、身分制を重んじた武家社会という世界の中での言葉であって、方言なんかを考えてみればわかるが、敬語は非常に簡単である。
それに現代の敬語とは、従来はアウトローが使っていた言葉を取り込んで出来上がったものである。
例えば、「です」という言葉は江戸時代は奴言葉だそうだし、「お父さん」「お母さん」という言葉は江戸時代は女郎言葉だそうだ。
江戸時代の武家の言葉をもとに、そのような言葉を含めて明治時代以降つぎはぎにしながら纏め上げたのが、現代の標準語である。
そんな形でできあがった言葉がいびつであり、その中で使われる敬語が形をなさずに変化するのは当たり前だ。
それを敬語の誤用と叫ぶのは、社会生活と切り離された世界で文法を考えればよい文法学者ぐらいだろう。

大体、美化語と丁寧語を分けなくたって、混同はしないだろう。
丁寧語にそのような分類が可能という考え方は、学者が研究のために行えばよいのであって、誤用と叫ぶのはいかがなものか。
そんな意味のない教育をするぐらいなら、もっと本を読ませたりディベート訓練をしたりしたほうがいいのではないか。

余談だが、純粋な日本語、正しい日本語とは何だろうか。
福田定良氏は哲学者だが、その内容はわかりやすくて本質を得ている。
純粋な日本語、正しい日本語というとき、それはそうでないことが判明していないからそう言っているだけなのだ。
これが正しくてあれは正しくないというときは、疑ってかかったほうがよい。

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著者:福田 定良
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2006年9月20日 (水)

漢民族のメンタリティがわかる奇書

今から20年ぐらい前に読んで未だに忘れられない強烈な歴史小説がある。

その名は「馬賊戦記」。

時は第一次世界大戦後、小日向白朗という青年が、特需で儲けた資金を元手に中国大陸に渡る。
当時流行の馬賊にあこがれて、自分も一通りの格好をして日本軍の特務機関の一員として中国に行くも、現地で捕まってしまう。
馬賊といってもピンきりで、盗賊まがいの馬賊もいるが、彼を捕まえた馬賊は実は地元の名士が率いる農村の保衛団。
中央政府の統制の利かない当時の中国では、町や村が自らの力で身を守るしかなかったのだ。
最初は下っ端として働き始めるが、やがて頭角を現し、中国東北部で彼を知らないものはないというぐらいの中国人のヒーローになってしまう。
あるときは千山を舞台に東北抗日義勇軍を率いたり、あるときは張作霖の配下に属したり、あるときは上海で秘密結社「青幇」(チンパン)の幹部になったりと、「本当なの?」と思えるような実話が出てきて驚かされる。
日本人としての意識を持ちつつも、中国人を理解しようとしない日本人に怒りを覚える主人公。

中国人の考え方もわかって面白い。
中国人はとにかく約束を重んじるそうだ。
酒の席のちょっとした約束もきちんと果たすという、義を重んじる性格だそうである。
首脳会談でその場しのぎのことを言って、後でそれと相反することをするような政治家は、対中交渉ではうまくいかないだろう。

馬賊戦記(上)新装改訂版馬賊戦記(上)新装改訂版

馬賊戦記(下)新装改訂版馬賊戦記(下)新装改訂版

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2006年9月17日 (日)

ローマ法王につける薬!!

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イスラム教とその預言者ムハンマドに関するローマ法王の発言を巡って、ローマ法王がイスラム教徒から激しい抗議を受けている。
その内容は、14世紀のビザンチン帝国皇帝のジハードに関する発言であり、ムハンマドがもたらしたものは邪悪と残酷だけであるというものだ。

そのような発言は歴史認識の乏しさを表しているとしか思えない。
それに先立つ十字軍は、ヨーロッパ人がいかに野蛮でアラブ人に対し残酷な行為を行ったかを表すものでしかない。
しかも、ヨーロッパはこのとき文明的に遅れており、優れたアラブの文化を十字軍等を通じて受容することにより、その後の自らの文明を発展させることができた。

ここらへんのことは、「アラブが見た十字軍」という本が詳しい。
ローマ法王はこの本を読んだ方がよい。

この本では、世界史では習わない、アラブ世界から見た十字軍の実態がわかる。
なお、この本は単なるアラブびいきというわけではない。

ヨーロッパがアラブの文化を吸収していっそう文明を発展させた一方で、アラブが停滞に陥ってしまった理由も分析しており興味深い。
この分析はイスラム原理主義の台頭の分析にも応用できるものと思う。

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2006年8月 2日 (水)

「世界コスプレサミット2006」開催!政府も後援、ブラザー工業も協賛

寡聞にして知らなかったのだが、「世界コスプレサミット」というものがあるそうだ。
今年の8/5・6に名古屋で開催されるのだそうだが、何と今年で4回目。
日本や中国、ブラジルなど11カ国から、予選を勝ち抜いた22人が参加するのだそうだ。
(ちなみに中国でもコスプレに人気があるそうだ)

日本のオタク文化の象徴でもあるコスプレが、世界から参加者を集めてのコンテストを開けるほど普及しているとは・・・。

しかも、このコンテスト、外務省と国土交通省が後援し、ブラザー等が協賛するとのこと。
政府も日本の文化として世界に広めようとしているということか。

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2006年6月18日 (日)

「ら」抜き言葉はすばらしい!~「ら」抜き言葉が誤っているという人間は言葉を語る資格がない

巷間よく言われるのが、「最近の日本語は乱れている、特に『ら』抜き言葉は日本語として誤っている」ということだが、とんでもない勘違いだ。
「ら」抜き言葉ほどすばらしい日本語はなく、そのすばらしさが理解できないということは、言葉に対する感覚が麻痺しているといわざるを得ない。

こんなことをいう理由を説明する前に、そもそも「ら」抜き言葉とは何か確認しておこう。
食べるという下一段活用の動詞は、助動詞「られる」を付けて、食べられるとしなくてはならないのに、「れる」を付けて食べれるとすることがあるが、この言葉を「ら」抜き言葉と呼んでいる。

では、この「られる」とはどのような助動詞なのか。
古文の授業を受けたことがある人はわかると思うが、「られる」という助動詞は、平安時代は助動詞「らる」として、助動詞「る」(現代口語では「れる」)とともに、「受身・尊敬・可能・自発」という4つの意味を持っていた。

ところが、このまったく異なる意味を4つ持ちながら、一つの助動詞でカバーするのはコミュニケーション上非常に難しい問題がある。
例えば、「彼は食べられた」というとき、これは以下のいずれの意味になるかはすぐさま区別できない。

  1. 彼が何かによって食われた
  2. 彼が召し上がった
  3. 彼が食べることができた
  4. 彼が自然と食べた

この4つの意味で、一番最後の意味はまずありえないから除外するとしても、3つの意味で区別することが難しくなる。
したがって、日本人は言葉の使い分けを考えたわけだ。

尊敬の意味の言葉では、「食べられた」ではなく「召し上がる」「お食べになる」など、尊敬の用法が切り離されて確立した。
特に「お食べになる」という表現は汎用性が高いため、他の動詞の尊敬表現として使われるようになった。
例えば、「逃げる」に対して、「お逃げになる」などである。

また、自発の意味も切り離されることが多くなった。
動作の表現の動詞では基本的に使われない。
思考を表す動詞で使われることが多いし、そうでない場合は、「自然と」あるいは「自ずから」を前に付けて強調したり、自発的な意味を持った専用の動詞で表現したりする。
例えば、「思う」に対して「思われる」、「考える」に対して「考えられる」といえば、たいてい自発の表現である。
また、「わかる」に自発的な意味を持たせる場合は、「自ずからわかる」という表現を使うし、「見る」に自発的な意味を持たせる場合は、「見える」などの専用の動詞を使う。

のこりは、「可能」と「受身」だ。
四段活用(現代の五段活用にほぼ相当)は、可能の意味は「仮定形」と「る」で、可能を表す動詞となった。
たとえば、「走る」に対して「走れる」、「競う」に対して「競える」、「飛ぶ」に対して「飛べる」などである。
だから、「僕は10km走れる」とは言っても、「僕は10km走られる」とは言わない。
また、下二段活用と上二段活用は現在の下一段活用と上一段活用にそれぞれほぼ相当するが、これについては、「仮定形」と「れる」で可能を表す表現が一般的に使われるようになった。
「逃げる」に対して「逃げれる」、「食べる」に対して「食べれる」、「植える」に対して「植えれる」、「寄せる」に対して「寄せれる」、「起きる」に対して「起きれる」などである。
そして、この用法がいわゆる「ら」抜き言葉である。
これらの表現の分化により、日本語の「れる」「られる」は専ら「受身」の意味として使われるようになったし、それ以外の意味は他の表現で代用されるようになった。
この結果、日本語の表現力は一挙に向上したとも言える。

ところが、どういうわけか、文法学者や国語学者はこの「ら」抜き言葉は誤った表現であると主張する。
一体何の根拠があってそんなことを言うのだ。
よく考えてほしい。
現代の「れる・られる」だけでなく、その他の言葉も文法も江戸時代や平安時代と随分様変わりしている。
それは、日本語を使ってきた日本人が、おそらくはほとんど無意識だろうが、自らの伝えたいことをより正確に表現したいがために日本語を変えてきた。
その変化後の日本語は、一部はそのまま消えてしまったかもしれないが、一部は他の人にも支持されて広まっていき、新しい用法として定着した。
その積み重ねを経て、今の日本語があるのだ。

よく「言葉は生きている」と言われるが、こんなものは例えでしかない。
言葉は、心臓や肺のある生物と違って、自らの意思で生きることができない。
言葉とは、他の文化と同様、人間が生み出したものであり、人間がいないところで勝手に生きているものではない。
人間が生み出した以上、後世の人間によって変えられる運命にあるのだ。

にもかかわらず、ある一時期の文法を楯にとって、この文法や表現は誤りだというのは、言葉の本質をまったく理解していない愚行なのだ。
国語学者や文法学者は、言葉に正誤を持ち出して断罪したがるが、そんなことを言ったら、国語学者や文法学者の正しいと信じている日本語だって、江戸時代の人からすれば誤りだし、平安時代の人からすれば江戸時代の日本語だって誤りになる。

正しい日本語如きがブームになっているようだが、日本語(および言語)の本質を理解できず、子供たちに日本語の可能性を信じさせないような教育が続く限り、日本語の未来は暗いと言わざるを得ない。

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2006年6月17日 (土)

世界最長の曲「ヴェクサシオン」聴きたいなあ~シャープの携帯電話のCMより

シャープのCMで、自社の携帯電話の音楽再生能力を表現するために、世界最長の曲「ヴェクサシオン」(ギネスブックにも載っているそうです)が演奏できるというキャッチフレーズが流れていた。

このヴェクサシオン、エリック=サティが作曲したもので、演奏時間は18時間である。52拍からなる1分程度の曲を840回繰り返すため、聞き続けた人は一種の異様な感覚にとらわれるそうである(ところで、当の本人もちゃんと演奏してみて確認したのだろうか、したのだろうねえ)。

本当に演奏されたことあるのと訊かれそうだが、演奏されたことはある。1963年らジョン=ケージ(実験音楽の旗手)によって初めて演奏された。この時は10人のピアニストと2人の助っ人が夕方6時から演奏を開始し、翌日の午後12時40分まで演奏をし続けたそうだ。日本でも1967年12月31日から翌年元旦にかけて、年越しで演奏されたそうだ。

エリック=サティといえば、「3つのジムノペディ」や「お前がほしい」で非常に有名だが、結構変わった曲も作っており、個人的には好きな作曲家の一人である。

ちなみにヴェクサシオンとは、フランス語で「嫌がらせ」という意味

こんなに長い曲を聴かせるなんて嫌がらせだという、エリック=サティの遊び心溢れた曲名となっている。

このCDにはヴェクサシオンは入っていない(というより入れるのが無理)が、上記の他の2曲も収められており、エリック=サティを十分楽しめるものとなっている。

ever!~サティ

こちらもなかなかいいです。

エリック・サティ・ピアノ作品集 Music エリック・サティ・ピアノ作品集

アーティスト:ビル・クウィスト
販売元:BMG JAPAN
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2006年5月26日 (金)

証券会社の店内から株価ボードがなくなった理由

証券会社の支店の中によく行く人ならわかるが、最近は証券会社の象徴とも言える株価ボードを店内に置かない店が増えている。
店のショーウィンドウには設置するが、店内からは撤去。これはなぜか。
株価ボードの株価を眺めて茶飲み話だけして、何の取引もせずに(口座もないかもしれない)暇をつぶす人間(ある意味ただ乗り)を追い出すため。
そして、本当に証券会社と取引をしてくれるお客様と対面で話をする機会を作るためなのだ。
ここで、取引をしない人間に「人間(ある意味ただ乗り)」と書き、取引をする人間に対し「お客様」と書いた。
そう、株価ボードを見せて商品の内容を示し、そのサービスに対し取引をして手数料を払ってくれる人間こそがお客様なのだ。

最近では日本のモノ作りを見直せといった論調が目立つ。
人件費の安い中国等の国に工場をシフトしているが、日本の技術力は素晴らしい、もっと技術力をアピールするべきだ、という論調である。

確かに技術力は高いが、だからといってサービスを軽んじていいものか。
 

このように現代日本の文化・風潮とは、モノ作りを尊び、その逆にサービスを卑しむことである。

では、いつからこのような風潮が根付いたのか。

武家社会の時代はそのようなことはなかったはずだ。
家来は主君に尽くし、主君は家来に俸禄で報いる。
家来の忠誠がサービスとして評価されていた。
しかし、江戸時代の途中から主君が家来に十分な俸禄で報いることができず、武士も内職で日銭を稼ぐような状況になり、明治時代になって武家社会が崩壊した。
その明治時代は富国強兵をスローガンに工場を造ってモノ作りに励んだ。

そして、太平洋戦争で、日本はアメリカの圧倒的な軍事力(とそれを支える物資調達力)に敗北。

戦後間もない物資の欠乏時期に、モノの豊富なアメリカの大量消費社会に憧れ、アメリカの技術力を吸収して、大量消費社会を実現した。
そこに原因があるのかもしれない。

いずれにせよ、日本ではサービスというとき、それは「タダでモノをあげる」と意味で使われることからもわかるように、サービスはモノに従属する存在でしかない。
サービスを「奉仕」と日本語に訳されることも多いが、そこに「滅私奉公的」な、ある意味ただ働き的な臭いを感じるのは私だけではないだろう。
タダで何かをするのは当たり前であり、そんなことで金を取るなというのが、ある意味厚かましい日本人的な発想なのだ。

一方、欧米はどうなのか。
アメリカのような大量消費社会であっても、チップのようなサービスに対する報酬という制度はきちんと確立している。
チップという制度がない国であっても、アメリカやヨーロッパでは、金融という目に見えないサービスに対し結構手数料がかかることからもわかるように、サービスというのはお金という対価が伴うという考え方が浸透している。

以前、日本の金融機関がお金の両替に手数料を取り始めたときに、マスコミはいっせいに騒いで非難した。
「たかが両替に金を取るな」ということだが、こいつらは自分が言っていることをわかっているのだろうか。
両替など金を預けるでもなく、借りるわけでもなく、ただ乗りしているだけなのだ。
両替なんぞ金融機関でなくたってできるのだから、何も金融機関で両替する必要ない。
金融機関にしてみたら、人手や機器の購入費だけかかって何の役にも立たない両替の人間など相手にしたくない。
誰だって、自分の仕事をほっておいてただ働きを強制されたらイヤだろう。
それと同じことだ。
私なんか小さい頃からずっと疑問に思っていた。
ビジネスが成り立つ客をほっぽっておいて、何で金にもならない両替を銀行は受け付けているのだろうかと。

全ての証券会社が株価ボードを店内から外し終わるときこそが、サービス業が真のビジネスとして確立するときなのかもしれない。

日本のモノ作りについてのいい資料はこれ。
日本のモノ作りの技術は世界に冠たるものがある。
結果として、サービスはダメだ、モノ作りこそ全てという現代の風潮を支えているという意味でも、読んでおくべき本である。

「しぶとい」モノ作り

「しぶとい」モノ作り

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